対談
第25回:(株)HCI代表取締役社長 奥山浩司(剛旭) × 小西恵子
小西さんと陸上競技との出会い(第1話)
新年あけましておめでとうございます。いよいよ2020年の東京オリンピック・パラリンピックを来年に控えた2019年の始まりです。今年は大きなイベントを前に、さまざまな盛り上がりと最後の追い込みが展開される正念場の年になりそうですね。
そのような年を迎えて最初にお届けするのは、東京パラリンピックを目指す車いす陸上選手の小西恵子さんを迎えての対談です。新しい年の初めにお二人のポジティブエネルギーを存分にお楽しみください。
第1話では、小西さんの挑戦にフォーカスして聞いてみました。小西さんは6歳の時のケガのため車いす生活を余儀なくされます。ある日、突然、家の中での事故で、幼稚園児が車いす子生活になってしまう……。そしてパラリンピックを目指すまで、どのような挑戦をされてきたのでしょうか?
奥山: 小西さんのこれまでの挑戦について教えてもらえますか? 6歳で障害をもたれ、車いす生活になったこと。そしてアスリートに目覚めていくお気持ちなどを可能な範囲で教えていただけますか。
小西: はい。車いす生活になる前は、野山を駆け回り、逆立ちや跳び箱など身体を動かすのが大好きな子供でした。ある日、いつものように家で逆立ちをして遊んでいたのですが、足を着地した時に、息が出来なくなるほどの激しい痛みがみぞおちの辺りに走ったのです。泣いて暴れたのを覚えています。家族はどれだけ驚いただろうかと思います。救急車で病院に運ばれた時には、既に足の感覚もなく、立つこともできなくなっていました。診断は、脊髄(胸椎)損傷。私のようなケースで脊髄を損傷するのは本当に稀で、原因ははっきりとは分かっていないのですが、この時点で一生歩けない、車いす生活になることが分かりました。
奥山: 告知された時、どのように受け止められたのでしょうか?
小西: 幼かったので自覚できていなかったのでしょうね。大きなショックを受けた記憶はないです。
小学校は普通校に進みましたが、親や学友たちが助けてくれたこともあり不便さや無力感などは特に感じたことがありませんでした。でも思春期の頃は、みんなと違うということを意識し始めました。外見を気にする年頃だから、コンプレックスも感じるようになりました。
奥山: その頃、テニスと出会ったのでしょうか?
小西: そうです。両親は、悩みがちだった私に変化を与えたいと考えてくれていたのか、障がい者スポーツを勧めてくれていました。車いすテニスの大会を観戦に連れて行ってくれたのが出会いです。そこで衝撃を受けました。それまで、学校生活の中では、車いすの人はいませんでしたから。でも、そこには全国から集まった車いすの人たちがいて、生き生きとテニスを楽しまれていました。年齢層も幅広く障害があっても、自分のことを自分で行える自立した人たちでした。彼らの行動を見て、私も何かできるのではないか。やってみたい。と希望を持つことができたのを覚えています。
奥山: それからテニスを始めたわけですね?
小西: はい。一度はまると、とことんという性格なので、真剣に。多くの大会にも出させていただきました。でも29歳の時に褥瘡(床ずれ)というものになり、手術が必要になりました。座ることもできず、何ヶ月か寝たきりに。車の免許もとり、就職もして自分は自立できるという気持ちを持ち始めた時期でしたので、やっぱり親に迷惑をかけて生きていかなければいけないのかと大きなショックを感じました。働くことに不安を覚え、どんどん自信がなくなり、気持ちが落ちていったのです。何もかもやめたくなり、一旦テニスをやめました。でも、翌年には陸上を始めましたけど(笑)。
奥山: どうして陸上を始めたのですか?
小西: 徐々に仕事に復帰していく中で、体力が必要と思い、体力作りのために何かスポーツをしたほうがいいと思ったのがきっかけです。陸上は個人競技なので、自分の好きな時に練習ができると思ったのですが、多分、性格的にもテニスよりも陸上のほうがあっていたのではないかと思います。
小西: 29歳で陸上を始め、32歳の時、陸上で出会った主人と結婚して神戸に移り住みました。
奥山: 陸上はどのようなところが楽しいですか?
小西: 良くも悪くも練習が結果に反映することでしょうか。最初のうちは特に結果が顕著に出るので、すっかりはまってしまいました。今は、どうすればもっと速く走れるかということで頭がいっぱいです(笑)。パラリンピックは、最高峰の大会です。ずっと憧れでロンドンもリオも目指しましたが、残念ながら出場には至りませんでした。次の東京こそはと思っています。
奥山: それは素晴らしい! 小西さんにとって陸上との出会いは今までで一番の転機ですか?
小西: 今までの人生での大きな転機としては、6歳の時のケガ、車いすテニスとの出会い、そして最も大きいのは、29歳の時のケガと陸上との出会い。考え方も大きく変わりました。パラリンピックを目指すことも自分にとっては大きな挑戦です。
奥山: 陸上競技のアスリートは、絶えず挑戦していると思いますが、どのようなスパンでON-OFFしますか?
小西: 大きな目標としてのパラリンピックを4年スパンで考えていますが、4年間の間には、例えば4年に一度のアジア大会、2年に一度の世界選手権、毎年行われる大会などがありますので、それに向けて毎回、コンディションを整え、挑戦しています。
奥山: なるほど。具体的にはタイムを縮めるという挑戦をされていますよね? しかも、タイムは僅かの差を争っておられる。
小西: 私の専門の100mでは、世界記録が16秒前半です。でも私のベストは17秒後半。それを考えると1秒半くらいはタイムを縮めなくてはなりません。100mの1秒というのは大変な差です。そこを毎日コツコツとトレーニングして、0.1秒ずつでも自分のタイムを縮めたいと努力しています。
奥山: 0.1秒ずつをストイックに縮めていくわけですね。凄い!! 驚きました。
小西: でも私はHCIさんが、どんどん新しい製品を開発している姿に驚きましたよ。
奥山: ありがとうございます。
奥山: 車いすを使う競技ですから、身体やメンタルを鍛えているだけではなく、車いすでも差がつきますよね? 設計思想や使用方法などが大いに関係してくるのでは?
小西: トレーナーからは、「車いす陸上はある意味、ロボットのようなもの。性能の高い車いすに乗っているのだから、物理学がわかって、力を伝えるべきところに伝えれば、きちんと応えてくれる。それを自分で熟知して、力の伝え方をマスターすれば、タイムは出る」と言われています。言葉の一部を切り取ると誤解を与えてしまいかねない強気な発言ですが、私はこの言葉に希望を持ちました。自分にはまだ伸びしろがあると今ではポジティブに捉えています。
宮西: 奥山社長が車いすを開発したらいかがですか? 二人三脚でやったら世界一をとれるかも・・。
奥山: 確かに「ロボットのようなもの」といわれたので、親近感がわきました(笑)。しかし、車いすの技術をしっかりと勉強しなければ、あり得ない話ですし、現在、研究・開発・製作・販売をされているメーカーさんにとって失礼な話です。しかし、面白そうですね……。すぐにとはいきませんが、検討してみたいです。(笑)(第1話終了)
コメント
6歳の時、家の中で、しかも家族の前で脊髄損傷という大事故を経験した小西さん。ご本人のみならずご家族の方も本当に辛い体験だったのではないでしょうか? でもそんな悲しみや葛藤を乗り越えて、現在の小西さんは明るく、ポジティブで光にあふれていました。そばにいるだけで、そのエネルギーに勇気づけられ、笑顔が伝わってきました。次回は、小西さんから奥山社長への質問が続きます。お楽しみに。(第2話に続く)
<小西恵子さんプロフィール>株式会社アソウ・ヒューマニーセンター社員、車いす陸上選手
1978年5月20日広島県生まれ。神戸在住。6歳の時、自宅で遊んでいて脊髄を損傷、車いす生活になる。29歳の時に車いすテニスから車いす陸上に転向。結婚を機に神戸へ転居。競技、仕事、家庭の両立を図る女性アスリートとして活躍中。世界パラ陸上競技選手権大会3大会連続出場。インドネシア2018アジアパラ競技大会にて、100m200mともに銀メダル獲得。
車いす陸上には100m、200m、400mの短距離、800m、1500mの中距離、5000mと10000mの長距離、そしてリレー競争などのトラック種目と、マラソンなどのロード種目があります。車いす本体については地面からの高さ最高50cmまでの位置、車いすのどの部分も、後輪の最後部を結んだ垂直面から後方に突き出てはならない、車いすを推進するどんな機械的ギアやレバーも使用してはならないなどの規定があります。
なおパラリンピックの陸上競技は、オリンピックと同様に跳躍や投てきなどのフィールド競技、短距離や中距離のトラック競技、車いすマラソンやブラインドマラソンなどのロードレースがありますが、車いす陸上とは、主に「レーサー」と呼ばれる軽量の(約8kg程度)競技用車いすに乗って競うトラックやロードレースを指します。鍛え抜かれた上半身から生み出される、スピーディーでダイナミックな展開からパラリンピックでも人気を博しています。レースでの最高速度は、トラックなどでは時速35km前後に、マラソンの下り坂では70km近いスピードに達することもあります。