対談
第4回:(株)HCI代表取締役 奥山浩司(剛旭) × 熊田篤嗣
新たな道へ~31歳のスタートライン(第2話)
出会いと縁に導かれて人生を切り開いていく二人。独立当初の厳しさの中を、夢と希望で乗り切っていきます。諦めずに進み続ければ結果が伴ってくる。貴重な体験から語ってくださいました。
奥山: 自分は三菱電機とはロボットの関係でご縁がありますが、熊田さんはどのような仕事をされていたのですか?
熊田: 僕の場合、当初はエネルギー関係でした。目指していた核融合とは違う分野なのですが、電力部電力科といってまさしく電力、水力発電所などを扱っている部署に入ることができました。でも残念ながら1年もいなかったんですよ。本来ならば3年以上は在籍したかったし、辞める気もなかったのですが……。
奥山: それが、どうして辞めることに?
熊田: 大学時代に紹介していただいた研究室の先輩が急に立候補する流れになったのです。衆議院の場合は急に解散、選挙も急に行なわれます。彼が出馬するタイミングになったとき、事務所に誘ってくれました。決断には躊躇しましたがこれもご縁だと思ったのです。
奥山: しかし、よくご決断されましたね。
熊田: 希望の会社に入社したばかりですから悶々と悩みましたよ。でもこれから先、議員の秘書ができるような機会はめったにあるものではありません。もしかしたらもうチャンスは巡ってこないかもしれない。最終的に会社に残るよりも彼と一緒に選挙に臨むことを選び、決意したのです。
もしそのときに辞めていなければ、ずっと辞めていなかったかもしれませんね。2年、3年・・と会社にいれば、関係も深まってくるでしょうし、取引先とのご縁も出てくる。仕事も面白くなるだろうし、中途半端には辞められない。
今思うと、あの時、「えいや!」で辞めたからこそ、今の私があると思います。
奥山: 政治家への道を踏み出したわけですね。
熊田: はい。ところが彼は見事に落選しました。
奥山: えっ! 会社を辞めて手伝っていたのに?
熊田: そうです。でも彼の知人が当選したので、そちらの秘書の仕事をいただき、ここで政治の世界をスタートすることになったのです。これが、この世界に入るきっかけでした。
奥山: 人生すべて思い通りにいくわけではないでしょうが、何か導かれていくようですね。
熊田: 確かにいろいろな巡り合わせで人生は道が開かれていくように実感しますね。奥山社長との出会いも、ラジオ番組に出演していなければ、なかったと思います。そう考えると本当に出会いは不思議なもので、ありがたいですね。
奥山: その後、ご自身が立候補するわけですね。
熊田: 秘書をしながら5年ほど勉強し、2001年後半に党内で候補者としての内定をいただき、2002年に正式発表。2003年が立候補でした。32歳のときで、わけもわからなかったですけれどね。
奥山: ほお! 自分は31歳の時に独立しましたよ。
熊田: 僕も選挙は32歳ですが、事務所を構えて独立したのは31歳の時でした。
宮西: すごい! お二人とも31歳にして独立を果たされたわけですね。31歳がキーワードですね。
熊田: でも独立して出足がいきなりこけました。落選スタートでしたからね。
奥山: 自分も最初は大変でしたよ。とはいえ自分の場合は、最初から目標が「30歳で起業」でしたから、少しの前後はあっても目標を達成できたわけです。嬉しかったですが、独立した当初は日銭を稼ぐ毎日でした。でもあれをしたい、これをしたいという夢と希望だけは溢れていましたね。
宮西: お二人とも最初は本当に厳しいところからスタートしたのですね。

自転車で街宣する熊田氏
熊田: 新人が立候補するときの選挙区は非常に厳しいところと相場が決まっていました。僕の場合もぺんぺん草も生えない、絶対に勝てないと言われた選挙区でした。周囲からは「厳しい選挙区だけれど、落ちても頑張り続ける気持ちはあるか?」と厳しく問われました。僕も覚悟はできていたので、落選しても、それほど応えませんでした。
熊田: しかし落選よりももっと厳しいことがあったのですよ。当時は比例復活という制度があり、僕もあと少し3000票から4000票を得ていれば、比例復活の可能性があったことがわかったのです。僕の票が思ったよりも伸びたので、その選挙区を狙う人が現れ、かなりいじめられましたよ。対戦相手ではなくて味方からの攻撃です。そこから次の公認をもらうまでの2年半くらいの間が、とにかく辛かったですね。
宮西: 経済的にも辛いのでは?
熊田: 熊田:次の公認が決まるまでの2年間は1円も給料をもらえません。生活費から活動費から全部自分でなんとかしなくてはならず、これも大変でしたが、やせ我慢をして、どうにか頑張りました。(第2話終わり)